軍艦島上陸記
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軍艦島上陸記


軍艦島とは

軍艦島(正式名称:端島)ではかつて石炭の採掘が行われていました。最盛期には約480m×160mほどの小さな島に約50棟もの高層アパートが建ち、 5000人以上が暮らし、東京を上回る人口密度の高さを誇っていました。しかし石炭需要の低下などで1974(昭和49)年に閉鎖、島は建物だけを残して 完全に無人となりました。
閉鎖から27年目の2001年8月、私はふとしたきっかけでなんとその軍艦島に上陸することができました。三和町の港からの距離は約7km、 所用時間は船に乗って約30分ほどです。小船に乗って港を出て波に揺られること30分、なんとか船着き場に行くことができたものの波の高さが極めて高く、 上陸がかなり危ぶまれましたが、波が弱まる一瞬をついて上陸に成功しました。飛び移るときは宍戸開もケインコスギもびっくり、リポビタンDのCMばりに決死のジャンプをしました。ファイト〜!一発!
船着き場からは、マンションの屋上給水槽にあるような鉄のはしごを登って入ります。


端島小中学校

船着き場のはしごを登ると学校の校庭に出ます。そのすぐ横にある建物がこの学校です。「小中学校」という言葉から木造の小さな校舎を連想される方も多いかと思いますが、他のアパートと同様の7階建ての鉄筋コンクリートの建物です。 校舎内は風雨や人為的な荒らし行為で極めて荒れ果てていて、床には机や椅子の残骸、教科書や教材等が散らばっていました。特に板が剥がれて骨組みだけになった黒板の不気味さは半端でなかったです。 また、裏の体育館は昭和45年築と、他の建物に比べるとダントツに新しいのですが、床も屋根も剥がれ落ちているためとても入ることのできない 危険な状態でした。学校といえば怪談の定番スポットだけあって、どの教室も極めて不気味でした。

65号棟

1945(昭和20)年築の建物で、島内最大の建物です。1945年といえば終戦の年。戦時中に建てられた建物は、物資不足もあってもともと数が少ないですが、これだけ大規模な建物となると他に例がないのではといわれています。コの字型になっていて中央に児童公園を配置したつくりになっています。
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66号棟

1940年築の建物で、海に面して建っています。7〜9階の高層建築が多い中、ここは4階建てと他の建物に比べてやや小さいです。風雨や波の影響をモロに受けやすい場所ということもあって、特に海側の状態が極めて悪かったです。
また、壁にはかつての住民(?)から我々へのメッセージともとれる面白い落書きが書かれていました。
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端島病院

65号棟の隣にあった建物が病院です。病院の隣には隔離病棟もあったのですが、残念ながら中には入っていません。 ちなみに炭坑という危険を伴う場所だけに落盤事故などの犠牲者が多かったと思われます。また、閉鎖的で不衛生になりやすい環境からか伝染病が多発していたとのことです。
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軍艦島の便所

ほとんどのトイレがぼっとん便所で、水洗便所は数えるほどしかありませんでした。しかも、穴が異常に深いうえ(9階建てでもぼっとん便所)、狭く薄暗くて 今にも青白い手が出てきそうな怖い便所ばかりです。作られた当時はこういう便所で当たり前だったのでしょうけど・・・
写真撮影には成功しましたが、出来上がったときは何かおかしなものが写っていないか不安でいっぱいでした。それくらい怖い便所です。
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最後に

レトロ建築シリーズ第二弾ということで軍艦島を取り上げさせていただきました。 中には同潤会アパートをこんな廃虚群を一緒にするなゴルァ!と思われる方もいるかと思いますが、 両者には戦前に建てられた数少ない鉄筋コンクリート住宅という共通点があることと、 大都市の住居と離島の炭坑にある住居の比較など、さまざまな研究要素があり、 ともに近代の建築を語る上では欠かせないものと考えています。
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