隅田川唯一の造船所と渡し船
2016年6月26日


隅田川唯一の造船所
2016年6月26日に、東京再発見の隅田川上流部を歩く企画に参加しました。その際に、「隅田川に唯一残るもの」を2つほど発見したので、こちらでも取り上げさせていただきます。
まず1つ目の「唯一」が、旧綾瀬川の隅田川への合流地点の足立区千住曙町にある伊澤造船(株)です。 現在の綾瀬川は葛飾区堀切付近から荒川と並行した後に中川に合流していますが、荒川放水路が掘削される前は隅田川に合流していました。荒川放水路掘削で末端部にあたるここが分断されてしまい、分断された部分が旧綾瀬川となっています。 荒川放水路ができたことで、隅田川は荒川の本流ではなくなりましたが、かつてはここから上流が荒川で下流が隅田川と名称が変わる境界だったとのことです。
伊澤造船
この会社の創業は明治10年(1877年)ですから、2017年で創業140周年を迎えるわけですね。この年の大きな出来事は西南戦争で、西郷隆盛がこれに敗れて切腹しました。
創業した明治初期は、隅田川だけで20〜30の造船所があったそうですが、徐々に姿を消し、唯一この会社だけが残るそうです。
現在の業務はほとんどが整備だそうですが、新造も時々行われているそうです。

隅田川唯一の渡し船
かつて隅田川には、多くの渡し船が存在したとのことです。元々は街道筋に合わせていくつかの渡しが存在しただけだったそうですが、 徳川家康が江戸にやって来て幕府を開いてから江戸の街が急発展し、一方で防衛上の理由で橋の数を制限していたため、その過程で渡し船が多く誕生したそうです。
隅田川に本格的に橋が沢山架けられるようになったのは、関東大震災の復興事業以降で、その過程で渡し船は徐々に姿を消し、1966年(昭和41年)に廃止された「汐入の渡し」を最後に、公道の一部としての隅田川の渡しは姿を消したとのことです。

日本化薬渡し船
しかし、21世紀に入った現在も隅田川に渡し船があることを知っている人は少ないと思います。 日本化薬(株)東京工場(北区志茂)と、対岸の(株)日本化薬東京の工場(足立区新田)を結ぶ渡し船で、日本化薬従業員専用なので一般の乗客は乗れませんが、今でもこうして存在しているのです。 両工場間の移動は道路を歩くと30分かかるところ、渡し船を使うことでわずか5分で済むのだそうです。

日本化薬渡し船

日本化薬渡し船
乗り場は部外者が侵入できないように施錠されているし、船が停泊している場所は高い堤防の向こう側なので、全く近づくことはできませんが、川沿いを歩くと工場から乗り場へと通じる階段があり、 そこに乗船に当たっての注意書きと簡単な時刻表が掲載されていて、ここから船に乗るということがよく分かります。始発は7:00で、最終は平日の2人勤務の日で20:00なのですね。


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